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「1960年三池・1963年CO大災害」
三池関西写真展、経過と総括
 
                                                  三池関西写真展実行委員会
                                                     事務局長     林  繁行
 
 
 2002年11月9日、現地熊本での第39回三池CO大災害抗議集会に参加し、現地共闘会議・被災者との温度差を痛感し、翌10日関西に帰ってきた。三池争議当事者やCO大災害被災者・家族、現地でしか解らないことを。

 三池争議は、総労働と総資本との闘い、多くのマスメディアが取り上げ語り継がれてきた。しかし、この40年の歳月は当時の記憶を風化させ、単なる歴史の1ページになりつつあり危惧していた。また、2003年11月9日は、CO大災害発生から40年を迎える歴史的節目に当たる重要な年でもあることから、関西から三池闘争・CO大災害の教訓と歴史を継承する目的として関西から発信する提案が具体化されつつあった。

 2003年4月に有志が集まり準備委員会が発足し、それまではただ漠然とした構想しかなく、幸いにも2001年は大牟田で、2002年には東京で三池写真展が開催されたと知り、方向性を見いだした。当面、経費の捻出及び発起人等の依頼要請の手はずを整え準備に取りかかった。一方2001年大牟田、2002年の東京写真展開催時に出展された写真家や関係者に連絡をとる手配を始め、写真家の池田さん、東京写真展実行委員の宗さん・池山さん達に連絡を取り、関西でお会いすることとなった。こちらの開催趣旨や目的と写真展会場の視察を兼ねての協力依頼を行った。準備委員会の趣旨を理解して頂き快く引き受けて下さった。その後、6月には発起人会議を開催し、幅広い発起人・賛同人の依頼の協力を要請した。

 順風満帆に進んでいたかと思われたが、その時点で準備委員会の考え方が甘かった事も反省しなければならない。「大牟田や東京で開催された写真展の写真や展示物をそのまま流用すれば」それに「今回のCO大災害関係の写真を追加すれば」と思っていたが、現地三池労組から「写真使用承諾」で快諾がいただけないことが判明した。そもそも写真の貸し出し転用については、写真家が了解すれば良いと誤解・勘違いしていたのだ。早速、実行委員会事務局は、8月2日に現地大牟田・荒尾へ向かい、今ままでの非礼と貸し出しの許可のお願いを行った。

  貸し出しについては、現地の沖さんや東京の宗さんの協力もあり写真の使用許可が頂けた。その足で、大牟田・東京での写真展に出展された「城台さん、藤本さん」にお会いすることとなった。この両名の方にも写真使用許可の依頼をした。
  その夜は、現地CO被災者家族の会の皆さん達と交流と親睦をはかり大いに盛り上がった。翌日の8月3日、CO患者のお見舞いに行くことになり、大牟田労災病院に向かった。 写真や書物で患者の様子は大体わかっていたが、しかし、現実は「今なお悲惨な実態」であった。事務局の全員が言葉を失った。

  9月2日朝、一通のファックスが私宛に届いた。城台さんからの写真提供を辞退される趣旨のものであった。その数日後、今度は藤本さんも同じく辞退される内容のファックスが届いた。色々と根回しするも断念するほかなかった。これで60年三池闘争の写真が展示できなくなることになる。写真家の池田さんと相談し、三池労組から60年三池闘争やCO関係の写真を探してもらうことと、現地CO患者の写真撮影と新たな仕事ができた。しかし、どの程度になるか不安が募った。

  9月5日実行委員会結成集会を開催。正式に実行委員会が結成された。 現地から沖氏(元三池労組組合長)、清水氏(CO被災者家族の会事務局長)が駆けつけてくれた。清水氏の話は、心打たれたに違いないと今でも私は確信している。また、写真展開催に当たって心強さを感じた。

 準備は次第に進んだが、悪い時には悪い事が重なるもので、衆議院選挙の投票日が11月9日決定された。写真展の前段に「シンポジウム」を計画していたが、延期・断念の声も上がってきた。理由は「人が集まらないのでは」。しかし、すでにパネラーとして「原田正純氏」、「鎌田慧氏」、「沖克太郎氏」に依頼済である。周囲からも断念するように説得されたが、発起人代表である「豊田正義氏」には相談できない。多分推測だが、こう言うだろうと思った。「何を情けない事をいってるのか、中止はできない。」とお叱りを受けるだろう。今だから言える事である。
  事務局の中で「シンポジウム開催」を決断し、賛同を得た。あらゆる団体への参加依頼、リーフレットの街頭配布宣伝活動など不十分ではあるが、実行委員会でやれる事はやった。シンポジウムの数日前、沖さんから連絡が入る。「清水さん」がシンポジウムに参加したいとの旨を伝えてこられた。パネラーを1人に増やすこととした。

  11月8日朝、午前4時に目が覚めた。シンポジウム開催は、午後1時30分からである。荷物を積み込み午前10時に会場に到着し、準備に取りかかる。開催の時間が刻々と迫る。「人集まるか不安が募る」。事務局のメンバー全員が同じ思いであったに違いない。しかし、不安と裏腹に150名の参加があった。シンポジウムは、豪華パネラーの参加と相まって、熱気あるシンポジウムとなった。この時期としては大成功である。いよいよ明日から、写真展だ。

  実行委員全員や他に協力を得て、シンポジウム終了後、写真の搬入・展示に取りかかる。私と発起人代表・豊田氏とは、翌日9日に現地荒尾で開催される1963年CO大災害第40回抗議集会参加のため、9日早朝大阪を出発した。現地の抗議集会も450名の参加で大成功であった。翌日の10日大牟田労災病院で清水さんのご主人(CO患者)を見舞いに行った。

  発起人代表・豊田氏と清水さんが昔の歌を共に歌ったのが心に焼き付いた。CO災害による重度精神疾患に冒されながら、昔の記憶が…

  11日(月)会場に入った。今日で開催3日目である。ビデオテープを全巻見ていく人、写真を指さしながら当時を懐かしむ人、元三池労組組合員の方、父親が三池労組組合員で当時の父親の生い立ち等、実行委員のメンバーに写真の説明を求める人、様々な人達が来館くださった。

  12日(水)午後6時閉館、延べ4日間で約500名弱の来館があった。約8ケ月間の準備・計画・行動、めまぐるしい日々の連続。終了後、荷物の片づけ・搬出、実行委員や賛同人等の協力を頂き、無事終了した。閉館後、ささやかな「ねぎらい」の宴を設け、酒が回るほどに発起人や実行委員会のメンバーが涙する姿が見られた。

  苦労や時には挫折感に苛まれが、8ケ月の思いが全うされた。関西の人達にこの「写真展」が何を意味するか伝わった事だと思う。またこの写真展を通じて、様々な方達にご無理・ご迷惑をお掛け致したと思う。書面を借りて失礼とは存じますが、お礼・感謝申し上げます。

  最後に、発起人会議での講演・シンポジウムのパネラーでもあった「清水栄子さん」の過去から今日までの活動には敬意を表したいと考えますし、私もこの経験を大切にし、今後の活動に大いに役立ていきたいと思っています。
  最後に、写真展でのアンケートの結果を記載します。

  関係各位の皆様たいへんありがとうございました。


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●アンケートの感想より

@ 三池闘争と聞くと胸がうずく年齢です。名も知られていない多くの労働者の死と犠牲の上に  私たちが生きていると思うと、現在労働者が自分の権利を踏みにじられて平気でいることが  恥ずかしい。いちからでも立ち直って、労働者が安心して生きることが出来る世の中を作ら  ないとという気持ちになった。

A資本の怖さを感じた。また、暴力団や警察とピケ隊が衝突する場面を見て悲しく思えた。

B三池の労働者が命がけで社会に訴えたものが、今日の日本の労働社会にどのように反映され ているのかと思った。結局は何も変わっていない。今後、社会に出ていくために、知るべきだと思った。

C熊本県荒尾市緑が丘で育ちました。なつかしく、また忘れてはならないと思い、今回妹を誘って見に来ました。この企画をされた方々に対して、感謝申しあげます。

D私たちの世代では感じることの出来ない人々の悲しさ・苦しさ・悔しさが作品の随所に感じることが出来ました。これからも必要だ。

E世代の差が知識の差となっていることは仕方ありませんが、「三池」を知らない世代に。そして、現在進行形の課題であることも事実。

F高度成長期の日本を支えた炭坑の裏にこんな様々な事件・労働争議があったことを知った。
 国と会社がグルになって労働者の生活を脅かしていたのかと思った。