シンポジウム案内へ                             表紙へ
 
 
『1963年三池CO大災害40年シンポジウム』基調報告
 

                                                    三池関西写真展実行委員会
                                                    発起人  豊 田  正 義
●はじめに
    今を去る43年前の1960年九州の地、大牟田市と荒尾市にまたがる三池炭坑の地において313日にわたる「総労働対総資本」の闘いと称される「三池大闘争」が繰り広げられた。
    この闘いは、日本資本主義体制の存亡をかけた、「石炭から石油」へとするエネルギー革命を総資本が強行するうえで不可欠の炭鉱労働者10万人の首切り合理化攻撃、その全面に敢然と立ちはだかる三池炭鉱労働組合と総評に結集する労働組合との死闘であり、戦後最大の歴史的な労働争議であった。

    今日、国家権力の中枢をなす三井資本は、1889年(明治22年)官営三池炭鉱を三菱資本との競合に打ち勝ち、三井三池炭鉱として明治政府より囚人労働者ともども引継ぎ、文字通り「人命無視の労働者」への強収奪を、以来100年余り続け、今日の巨万の富と権力を築くに至った
    この三井資本の実像を上野英信氏は(生涯かけて九州筑豊地域などの炭鉱労働者と家族の生活、労働、風俗などを書き続けた作家)次のように描いている。

    「波静かな有明海の底深く、無明の根をはる三井鉱山三池炭鉱は、日本資本主義の 〈悪の華〉である。」1889年の創業以来1930年まで、実に半世紀を越す長期間、 おびただしい囚人を坑内労働に使用したのも三池である。また近くは1963年、戦後最大の爆発事故を起して『458名の生命を奪い、839名のCO中毒患者を出したのも三池である。』と、(ドキュメント『去るも地獄・残るも地獄』 鎌田慧氏著= に寄せられた解説文より)

    さらに付け加えるならば、三井資本の労働者に対する強収奪・強搾取の残酷さは、 労働災害に関する政府統計開始以来、78年間(1906年「明治39年」より1984年「昭和59年」まで)の三池炭鉱における労働災害による死傷者数は36万160人に及んでおり、炭鉱の存在した大牟田市民の人工は16万人であるところから、市民人口の倍余りの被災者が発生している事実をあげるだけでも十分な証拠となるであろう。

●「三池炭鉱労働組合の結成と保安闘争」

    1946年2月3日、三池炭鉱労働組合結成(組合員数13,000人、まもなく 30,000人)しかし、図体だけ大きくて闘わぬところから他労組からは「眠れぬ豚」と癒され揶揄される。しかし、1952年の六三スト、続いて三池炭鉱主婦会結 成のころより、幹部中心の闘争より、職場闘争を主力とした大衆闘争として職場労働者による創意あふれる保安闘争が繰り広げられた。
    保安委員会、保安常会による保安サボの追求、完全雇用制度の実施(一人やめれば、一人補充)、出来高払制の是正(坑内現場の労働者の公平は配置をめざして労組が介入) 下請け、組夫労働者の労組への組織化、労働災害の下請化を許さぬ共同闘争=などを活発化し、ついには中央協定で「保安優先」を明記させるに至った。

    その保安闘争を主要な柱とした職場労働者運動の高揚をもたらしたものは労働災害 の激減であり、労働者による労働権の確立であった。年平均死者29名、重軽傷者2,361名が、三池大闘争の前年(1959年)には、死亡災害ゼロに迫るまでに(1名)運動は前進したのである。労働権が労働者たちによって掌握されたのである。
    労働者にとって最も切実にして、最大の要求=「労働者の尊厳」と「労働と生きる 権利」を護り、うち起てる闘いの高揚と勝利は、かくて三池炭鉱労働組合を日本最強 の労働組合にまで押し上げるエネルギーをもたらした。


●「三池の職場闘争は革命の子」

    この三池労働者による「労働権と生存権」を「労働者の尊厳をかけて」うち起てる職場大衆闘争に日経連ら日本の総資本は心底より震え上がらせた。
   1959年(昭和34年)の日経連総会に於いて、前田専務理事は「三池の職場闘 争は革命の子である。」として、「これを双葉のうちに摘み取る重要さ」を力説し、「安 保闘争と並んで、三池−炭労闘争は重大。石炭業界においては8万〜11万人の首切 りが必要。もしもこれに失敗するならば、わが国の資本主義体制に動揺を来す恐れあ り。」と資本の側よりの決起を求めた。
  かくて同年12月10日、三井資本は三池労組員1,278名(この大半は組合活 動家であり、保安闘争のベテラン)の指名解雇攻撃を開始、313日に及ぶ「総資本対総労働」の闘いとしての三池闘争の幕は切って落とされたのである。


●「去るも地獄・残るも地獄」

    「敵よりも一日長く」「去るも地獄」「残るも地獄」を闘いの合い言葉として三池労働者主婦らは総評を中心とした労働者階級、海外の労働者組織の熱い支援を受けて、英雄的に闘いぬかれた。
    この間の全国よりの支援オルグ数29万5337人、寄せられた国内カンパ18億 6235万9071円、外国よりのカンパ3,159万8628円、動員された警官 数4万9071人、なお、中国の炭鉱地区撫順では40万人の「三池闘争支援集会」 が1960年4月に開催された。
    この三池闘争も1960年3月15日、緊急中央委員会で資本の計画的な分裂策動により分裂、二日後、批判勢力が第二組合を結成、警察と一体となって暴力団が介入
  久保清さん刺殺。6月15日、保安闘争で東大生、樺美智子さん虐殺される。
    三池闘争に全学連が共闘。9月9日、三池労組、中央委員会で中労委斡旋案受諾決 定。11月1日、三池闘争終結−という経過の中で三池闘争は重大な、数々の教訓を内包しつつ闘いの幕を閉じた。


●「大災害は三井鉱山の保安サボによる」

    1963年11月9日、三池炭鉱三川鉱において発生した「炭じん爆発」による大災害は(458名の死者、839名のCO〈一酸化炭素〉中毒発生)戦後最大の労働 災害であった。そしてこの災害は起こるべくして起こった。
   三井資本の「生産第一主義」「人命無視の合理化」政策によって引き起こされた「保安サボ」にもとづく「人災」であった。

    そもそも「炭じん爆発」は、炭じんの堆積と大量に空中に浮遊するのを防止すれば 爆発は防止できるものであり、端的に言えばホーキによる坑内の清掃、散水、岩粉の散布を確実に行えば、爆発は阻止しえたものである。
    しかし、三井鉱山らはその単純作業をサボタージュした。三池闘争前までは(1959年)災害の発生した三川鉱では12名の当番と5名の保安要員によって“炭じん抑制”の作業が行われていたが、1963年の時点では2名にまで縮小され、日常的 にはこの作業は放棄されていたのである。つまり「保安サボ」が常態であり、水道の蛇口も錆び付いていた。

    1993年3月26日、福岡地方裁判所による判決に於いても『鉱山側の風化砂岩説らの失災説(三川鉱は砂岩によって主に形成され、たえず岩粉を散布した情況であって、爆発は不可抗力な原因によって発生した)を採用せず、三井鉱山に保安責任あり。』と明快に判断している。


●「労働者は命までも売っていない」

    この世ながらの生地獄−そのものの大惨事を前にして。一主婦は「合理化は人殺しだ!」と号泣した。全国の心ある労働者を始めとした仲間たちも悲しみと共に怒りに 燃えて闘いへの決意を固めた。
    向かうものに代えがたいおびただしい三池の仲間の命と流された血潮、遺族の慟哭をとおして、三池の地から「労働者は命まで売ってはおらんぞ!」「資本主義社会では、労働者は闘わなければいけんぞ!」という檄と、闘いへの総決起を訴えたのである。

    大災害の翌年、現地大牟田市において総評労働組合中央は、全国活動者会議を招集し、「労災、職業病闘争」のスローガンとして『抵抗なくして安全なし』を緊急提案し、満場一致で採択された。
    「労災職業病闘争、安全保安への闘い」は、急速に拡大し、やがて中央に「日本労働者安全センター」が設立され、総評を始め主要な労働組合における運動の重要な柱として位置付けられ、運動は強化・拡大されていった。この闘いの中から、「労災・職業病の無い職場はない」という生産点職場の実態が明確になり、「全国の職場の三池化」が高度経済成長下の過酷な現実が白日のもとに晒されたのである。
            

●11月9日は「三池労働者屈辱の日」

    三池大災害の直後、三井鉱山らの企業幹部たちは、遺族・被災者・家族らの前で深々と首を垂れ、「例え、三井の社屋にペンペン草が生えようとも十分な補償をさせていただきます。」と誓ったにもかかわらず、以後の三井資本政府は、権力をも総動員して、 「三井資本による人殺し合理化の生証人である、遺族・CO被災者・家族らを三池の地より放逐・棄民化をめざし」労組の「労働と生きる権利を認めず」ひたすら「最大限利潤の追求」に爆走するのである。
    これに対し、三池労組は、三池大災害を『労働者屈辱の日』と位置づけ、三池大災害は労働権をめぐる労資の闘いに労働者が敗北したが故に、その必然として大災害が引き起された−と厳しく運動を総括している。また、大災害は三池大闘争時の闘いのスローガンである「残るも地獄」が三井鉱山によって具体化されたものとして怒りを持ってとらえているのである。

  *労働権の歴史的な起源は、1848年の「二月革命」においてフランス労働者は共和国臨時政府に要求して、次のような「労働権」を承認させた。
    @労働者は自らの労働を作る権利がある。
    A労働者は労働によって生きる権利のあることを保証し、承認する。
  *三池労働者は長期にわたる保安闘争の歴史と自らの体験を通じて、「労働権」を労働者がうち起て、自らの腕に握りしめた時、労働災害は激減し、逆に資本によって「労働権」が奪われ、自在にされる時、労働災害は激増する=ことを深く理論づけ自らのものとした。

  大災害以後も、三池労働者、主婦らの「労働と生きる権利」を護り、うち起てる闘いは一貫して労働運動=労働者運動として取り組まれ貫徹された。主な闘いは次の如くである。

▲1967年(昭和42年)7月14日、CO患者の労災補償打ち切りに抗議して、「CO家族会」の主婦75人が、大災害発生職場の三川鉱の坑口から坑内に入り地底350mの坑底にて怒りの144時間に及ぶ座り込み闘争に入る。温度30度、湿度90%の坑内では男の鉱員でも48時間が限度といわれており、「夫の完全治療」と「CO特別措置法」を要求する死にものぐるいの闘いであった。「CO特別措置法」は7月21日に成立したが、やがて次々と空洞化される。

▲1973年(昭和48年)、三池労組は災害発生10年目に三井鉱山らに「加害責任を問い」「CO患者、遺族らの医療、生活補償」「二度と災害を発生させない」の要求を掲げ、420名のマンモス原告団を結成、三井鉱山らの加害責任を問う訴訟を起す。
  1987年(昭和62年)、三池労組執行部、総評弁護団ら、原告団の内、388名を次の条件で和解の席につかす。

      @三井資本への責任を今後一切問わない。
      A損害賠償金:死者400万円(但し、5年間の分割)
      BCO中毒患者400万円〜60万円(但し、6ケ月〜5年間の分割)

沖原告団・不屈の裁判闘争
        三井鉱山らの「加害責任」認めさす。
▲和解に屈せず闘い続ける。元三池炭鉱労組・組合長、沖克太郎氏ら32名が新たに原告団を結成し、裁判闘争を続行す。
      1993年3月26日、三池CO裁判勝利する。
      「判決の要旨」
       ・炭じん爆発の原因は相当量の炭じんがたまっており、初期爆発を起した。
       ・被告=三井鉱山は損害賠償の責任がある。
       ・原告=遺族・被災労働者らの時効は完成せず。(有効である。)

▲「三井・沖原告団」は裁判勝利後、「三池CO被災者の会」と改組し、「三井鉱山社長の謝罪」「裁判費用の支払い」「交渉の窓口の設置」などの要求を掲げ、闘いを継続する。三井鉱山らは「裁判の上でもなければ下でもない」といまだに屈せず。

   三池炭鉱閉山合理化強行さる。
    1997年3月30日、三井鉱山ら『三池炭鉱閉山合理化攻撃』を強行。三池炭鉱、百余年の歴史を閉じることによって『三井資本の“人命無視合理化”の歴史的な生証人の三池の地よりの放逐をめざす。』

    閉山合理化にあわせ「三池CO協定」を被災者・家族・遺族らと相談もなく一方的 に破棄する。
  *「三池CO協定」とは、大災害発生時に被災者・家族・遺族らと結んだささやかな  企業内補償。例えば盆、暮れの仏前への線香代、遺族の炭住入居、裁判闘争になっ  た入院中のCO患者の送迎=その他
    裁判闘争に持ち込まれたのは、CO協定破棄により「重度の入院中のCO被災者の月 に一度の試験外泊の患者の送迎を打ち切った。」が「今までどおり、会社のバスと職員 によって送迎せよ」と三家族が告訴したものであるが二家族のみ高裁で勝利。三井鉱 山上告するも最高裁受理せず、2002年6月勝利確定

●「保安サボによるじん肺裁判ついに勝利和解」

    特に注目される闘いとしては、「三井資本の保安サボ」によって労働者に強要された「不治の病−じん肺」への「あやまれ! つぐなえ! なくせ!じん肺」のスローガンで闘い抜かれたじん肺裁判である。
    三井系の北海道・筑豊地域の炭鉱での被災者との共闘として長期にわたる裁判闘争 が闘いぬかれ、昨年7月、三池じん肺裁判は勝利的和解として終結する。

    原告団の半数近くが裁判中に死去するという厳しい現実にあって、裁判長は「原告(じん肺被災者)の存命中に解決し救済を」として「和解による終結を」と数回にわたって勧告するも、三井資本は「諸般の事情により」「判決による決着を」と引き延ばし戦術に終始し、「じん肺被災者の死に絶えるのを待つ」とする、非情の姿勢に終止してきた。
   しかし、高まる世論と、全国的な炭鉱のじん肺被災労働者、家族の運動の高揚によって昨年7月30日、三井鉱山の西野修司社長はついに和解に応じ(内容は正に勝利和解である。)裁判闘争は勝利した。しかし、終結集会で西野社長は「弔意を表明し」「お見舞いする」とは述べたが、「お詫びする」との言葉を吐くことはついになかった。

●「これぞ、三池闘争の弁証法」

    じん肺裁判の評価と、今後の闘いの路線について「三池炭鉱じん肺訴訟原告団・宮 崎勝団長」は次の如く述べている。

   「60年三池闘争の最中に三池炭鉱労組は分裂し、時には憎しみあうということすら あったが、当時より統一は三池労働者運動にとって大きな目標であり、悲願でもあっ た。」そして、「じん肺裁判闘争では、当時の第一・第二組合、職員組合は団結して闘 いぬいた。集会などの後で、三池炭鉱労働組合歌『炭掘る仲間』を全員で合唱するこ ともある。この統一と団結の力が勝利を呼んだとも言える。これこそが『三池の労働 者闘争の弁証法』ですよ」
    「闘争勝利のあと、いまだに裁判闘争中の全国の炭鉱の仲間たちを支援し、また、埋もれた被災者にも手をさしのべ、共に闘うために、私たちは『じん肺根絶三池対策 会議』を結成した。じん肺を出さない、許さない世の中を築きあげるために闘い続ける」
    まこと、三池の労働者、主婦の「人として生きる」ための闘いは止むことがない。


●「三池関西写真展」「シンポジウム」が願い、めざすもの

    『1960年三池・1963年CO大災害』三池関西写真展への参加と支援のお願 いの中で実行委員会は次のように訴えている。

    あれから40年〜43年を経過した現在、当時と比較にならない全社会的で大規模 な首切りが横行し、労働災害と言うべき過労死が増え続けている。この現状を考える時、一昨年の大牟田、昨年の東京に引き続き、この関西で写真展を開催する意義を、私たちは『三池闘争、CO闘争を風化させず、歴史に学び、現在から捉える直す』ことに見い出した。

    『人間らしさ、人間の尊厳を守る気運』を関西でも引き続き、関西からも発信する。 日本労働運動史上、燦然と輝く金字塔としての313日にわたる三池大闘争を担った三池労働者、主婦らの合言葉「去るも地獄」「残るも地獄」であった。そしてこの言葉に凝縮された労働者を取り巻く情勢は基本的には今も変らぬと言うより、はるかに「戦争と暗黒」の時代に突入しつつあると言わねばならない。国内不況はとどまるところを知らず、大手を振ってまかり通る「構造改革という名のリストラ合理化」は、300万人を遙かに超える大失業時代をもたらし、最も悲惨な過労自殺は1600件に及び、過労死は1万人を優に超え、資本による労働者の生命、魂にまで及んでいる。この労働者、人民への強収奪と抑圧を土壌として小泉政権と権力はひたすら「脱亜入米路線」と「憲法改悪」「侵略戦争への道」をひたすら走っているのである。

  かかる「戦争と暗黒の時代」であるが故に三池の地から、1960年、63年の闘いの中から三池の仲間たちが何を私たちに訴え、要求しているのか、をしっかり「社会の主人公」である労働者の尊厳をかけて受けとめ、その珠玉の教訓をこの関西の地で根づかせ、闘いと運動の果実を実らせたいと念願する。