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三池関西写真展・総括ニュース(主要文字部分)   ダウンロード用テキスト・ファイル
 
発起人=172名
 賛同人=356名
  合計=528名のみなさま  ご苦労様でした。
                   そして、有り難うございました。
 
 
 
 
「三池CO大災害40年シンポジウム」と「三池関西写真展」をふりかえって

                               豊田 正義

                        三池関西写真展実行委員会発起人
                              関西労災職業病研究会代表
                              北摂労災職業病対策会議事務局長
  昨年2003年は、正に「三池に明け、三池に暮れた一年」と申しあげても決して過言ではありますまい。

 事の起こりは一昨年の11月10日、「第39回三池大災害抗議集会」が熊本県荒尾市で開催され私も参加した。関西の代表団の一員であった全港湾大阪支部安全衛生委員会議長の林繁行氏と帰路の車中で、「来年は三池大災害の40周年となる。それを記念して大阪の地で何か行事をやったらどうか」ということが話題になった。「やるとすれば、シンポジウムと写真展がええやろ」ということにあいなり、年が明けての早春の頃に、東京での写真展に関わった人も加わり、急速にプランがふくらみ続けた。

 発起人代表グループ、事務局グループを結成しつつ、大車輪の活動を開始した次第である。中でも、これは衆目の一致するところであるが、事務局グループの東奔西走、獅子奮迅の活躍ぶりはすさまじいものであり、色んな困難を乗り越えこのカンパニアを彼岸に到達させた原動力であったことは間違いない。

●『はじめに』=宇山カーボン労働者の「じん肺闘争」のことなど

 写真展以前の関西(特に北摂)地域の労働運動と三池労働運動との係わりはいかがなものであったか?私が初めて三池の仲間と知己をえたのは、1963年の三池大災害の翌年の秋のことであった。当時三池労組は63年CO大災害への支援共闘を全国に拡大すべく、オルグを全国に派遣していた。当時の大阪総評の北摂地域オルグは宮崎良勝氏(三池労組元中央委員・故人)であり、三池より送られてきた松尾薫虹さん、菊川五百子さん(共に三池炭鉱主婦会員、夫はいずれもCO中毒被災者)ともども精力的に職場オルグを進めた。 北摂地域は軽工業地域であったが、労働災害・職業病は蔓延し、それへの取り組みも進んでいた。湯浅電池の「鉛中毒」、松下電子の「砒素中毒」「腱しょう炎」、電話局での「異常妊娠」、日本触媒の「フタロジニトリル中毒」、住友化学での「職業性癌」などなど、「職業病のない職場はない」と言われるほど、『全国の職場の三池化』は北摂地域にも拡大していた。この「生きるための闘い」に取り組んでいる労働者にとって、三池大災害への三池労組の闘いの意義を理解するのに時間はかからなかった。

 この主婦会メンバーが職場めぐりの中で出くわしたのが、宇山カーボン(日立マクセルの下請け企業。乾電池の真ん中にあるカーボン棒を製作。労働者数30名、6割が婦人労働者)の労働者たちであった。丁度小生も同行した職場訪問の折り、労働組合の集会が開かれており、労組の全員発言方式(会議では必ず全員が一言でも発言する約束事)で進行していた。その中で一婦人は『わてらの職場は何でこんなに肺病が多いんでっしゃろ。肺病とこのカーボンの粉とは関係おまへんのやろか』と発言した。議論が集中した。そして次の事柄が明らかにされた。肺病患者は9名(30%)もおり、事実は、ふんじん職場の代表的な不治の職業病である=じん肺=と、肺結核の合併症であったのである。また、すでに過去2名の労働者が肺病という私病名で闇に葬られていたのである。

 それは、かつて春闘の団体交渉の際、労組より『こんなにカーボンの粉末を吸って大丈夫か?』と経営者に質問したところ、経営者は次のように回答したという。『お前ら安心せい。カーボンはクスリなんや。嘘と思うんやったら漢方薬の店をのぞいてみぃ。「ヤモリの黒ヤキ」か「サルの頭の黒ヤキ」があるやろ、あれは英語で言うたら「カーボン」なんや。おまけにうちのクスリは1.200度で消毒しとるんや』。この大言壮語の回答の中味と現実はあまりにも違っていた。

 何日も討議し、医師の助言もえて、宇山の仲間たちは「じん肺法にもとづいた健診と補償を行え」「職場環境を改善しろ」「じん肺発生の責任をとれ」などを怒りをもって要求した。以来三年間にわたって工場を占拠して闘い抜いた。企業は折からの「日韓条約」を利用して、低賃金・無権利の労働力に目を付け、「韓国」に韓国カーボンを開業し、返す刀で企業閉鎖・全員解雇攻撃を宇山カーボン労働者に加えてきた。だが、労働者は屈しなかった。『「じん肺患者」の一方的首切りは「公序良俗に反する」』との裁判所の判断と和解をも受け入れ、ほぼ勝利した。
 三池労働者たちは、この宇山カーボンを「都会の中の炭坑」と名付け、地域ぐるみの支援共闘決起集会には「宇山カーボン労組と三池炭鉱労組との団結万歳!」という熱いメッセージを寄せてきた。

●三池との交流で元気をもらう

 北摂をはじめとした地域労働者と三池労働者との支援共闘は更に多岐に及ぶが、あと大幸銘版労組の闘いを付記する。
 大幸銘版(高槻市)は、労働者約170名、家電製品を中心とするプラスチック成形・加工業であった。1968年12月、成形職場で飯塚健二さんが成形機に左腕を奪われる。69年2月、二件の労災事故が矢継ぎ早に発生する。その背景には12時間二交替制という苛酷な労働条件と職場環境があった。この中で労組結成の呼びかけが行われ、2月7日、約140名(含むパート)が結集。これに対し、企業は第二組合を結成。さらに親元に急報。「脱退工作」を朝駆け、夜討ちで行う。2月末には組合員8名に激減。敗北感がひとしきり漂う。

 ここに及んで、前記宮崎良勝氏は「一度、三池に行ったら?労組解散はそれからでもヨカろうが」と。やがて民宿を含む三池との現地交流。帰阪した労働者の瞳は輝いていた。以来1996年まで地域労働運動の砦として労働運動を始め諸闘争を担ってきたのである。後で大幸銘版の仲間に、三池との現地交流の感想を問い直したら、『そうやなぁ、むつかしい理屈やなしに、元気を一杯もらってきたんよ』という言葉が跳ね返ってきた。

●関西写真展・シンポジウムが私たちに突きつけたもの

 以上、写真展・シンポジウム開催以前の北摂地域での労働運動と三池労働者と主婦との交流小史のようになってしまったが、この小史の土壌の上に今回のカンパニアは根付こうとしていることを私は感じる。関西写真展・シンポジウム開催に至る諸問題、その総括については、事務局などの方々にお願いするとして、写真展・シンポジウムを通して、労働者・市民・学生など多様な方々が予想以上に何故参加されたのか。また、三池写真展・シンポジウムから発し、時にはほとばしる想いが私たちに迫ってくるのは何かを、私見ではあるが述べたい。

 第一に、近年、私は静かな「三池ブーム」のようなものが、職場・地域のあちこちに漂っていると思っている。一昨年秋、全港湾労組、自治労労組の僅かな部分だが、「労働運動ってこんなもんか。だとしたら俺はやめる」という青年労働者の声があがっており、「いいや、こんなもんではない。嘘やと思うなら三池に行ってみい。そしたら解る」と、執行部員が「11・9/三池大災害現地抗議集会」に青年ともども参加されたのを、私は二人体験している。

 「三池に行くと元気がもらえる」「元気になる」とは、現地交流をした労働者の率直な言葉だが、それは何故か?私は三池には「ほんまもんの労働者がいるからだ」と思う。それは、韓国の民主労総のアジアスワニーを闘った若き婦人労働者の叫びとも酷似した人間像だ。「私たちが労働者であることを恥じる時代は終わった」「労働者の尊厳を侮辱するものには命をかけても闘う」と。

 第二に、三池労組は保安闘争(労災職業病闘争)を労働運動の最重要な課題として闘い抜くことによって、三池労組を日本最強の労働組合に登りつめさせた。保安闘争を労働者運動として徹底して闘い抜いた。労働災害職業病問題は資本の労働者収奪に伴う恥部であり弱点である。そして、労働者にとっては味方を大きく団結させ、敵を包囲孤立さす戦略的に有理な闘いであるからである。
 そして、闘いの基本路線は災害を出さぬ=災害源を除去する闘い=として貫徹された。「労働権を労働者は我が手に資本から奪還することによって死亡災害ゼロに迫るまで資本を追い詰めた(1959年・死亡災害1名。40年間の死亡災害は年平均29名)」

 第三に、三池大闘争を三池労組は次のスローガンで闘いの思想を武装し、「労働者の尊厳」を守り抜いた。労働者を取り巻く情勢は昔も今も変わることはない。「去るも地獄」「残るも地獄」は現在も脈打つ闘いのスローガンである。

 第四に、三池労働運動は、労働者の解放−革命をめざした。職場生産労働を労働者はわがものとした。そして、労働権を資本の手から奪い返し労働者の解放を準備した。だから総資本(日経連)は恐怖したのである。1959年の日経連総会で前田専務理事は『三池の職場闘争は革命の子だ。双葉のうちに刈り取らねばならぬ』と叫んだのである。

 第五に、闘いの中で三池労働者は『革命の既成の前衛部隊』を乗りこえ、自らが機能前衛としての役割を果たした。そして政府権力との厳しい闘いの中から前衛建設の道筋を示した。

 第六に、三池大闘争は、革新陣営・党派、労働組合、市民組織を含め、「三池闘争の勝利をめざす広大な統一戦線」を築き上げた。現在、国の命運をかけた重大な事態に直面しつつあるとき、統一戦線問題は最重要な運動課題であり、三池闘争並びに以後のCO災害闘争をも含め、私たちも歴史的総括にとりかかり、即実践するべきだろう。

●ビデオと「語りべ」で地をはう活動を

 シンポジウムの中で鎌田慧さんは「日本の労働運動の大いなる欠点は、闘いと運動の総括がほとんどなされていない」ことをあげ、鋭く批判をされた。
 また、原田正純さんは、『「水俣病」に関しては「水俣病学会」があり、多面的な討議が深められている。その点で、三池大災害に関する討議の場は殆どない。私の提案として、水俣病のように「三池学会」のようなものを創って豊かな討議の場を設定されたらどうか』の提案もなされた。
 新年に入って、関西写真展の実行委員会を解散することなく、「総括と今後の運動課題と方針」を折に触れて行い、運動の新生の声を関西の地より発しようとの熱意は健全である。幸い強大な武器として「ビデオ」が2月中旬には出来上がろうとしている。講師団というよりは「語りべ」グループを編成し、職場から地域から地をはうような小集会をやる。ここからまず始めてはどうか。